0001 号 巻頭言

Rubyist Magazine の発刊に際して

「〜の発刊に際して」などという表題の文章を書こうとすると、ついつい、

「ソフトウェアは万人によって使われることを自ら欲し、スクリプト言語は万人によって愛されることを自ら望む。かつてはプログラマを愚昧ならしめるためにソフトウェア開発の技芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。いまや知識と美とを特権的企業の秘密保持契約より奪い返すことはつねに進取的なるソフトウェア開発者の切実なる要求である。Rubyist Magazine はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。」

とか、

「私たちの文化がスクリプト言語普及に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以って体験し痛感した。西洋スクリプト言語文化の摂取にとって、AWK 以後 20 年の歳月は決して短すぎたとは言えない。にもかかわらず、近代的オブジェクト指向スクリプト言語文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、一般利用者への文化の普及浸透を任務とするソフトウェア開発者の責任でもあった。」

とか、

「スクリプト言語は、我が国にとどまらず、世界のプログラミング言語の流れのなかで“小さな巨人”としての地位を築いてきた。古今東西のライブラリのモジュールを、廉価で使いやすい形で提供してきたからこそ、人はスクリプト言語を自分の友として、また青春の思い出として、語りついできたのである。」

といった文章を書きたくなるのだが、こういうお遊び1は若いうちに二度三度とやっておけばよいことらしく、そうそう繰り返すものでもないようである。かくいう私も学生の頃や卒業間もない頃に似たような駄文を書き散らしていたことがあるのだが、今思い返すと拙さゆえの恥ずかしさが先に立ち、内心穏やかではない。ネットに晒さずにいて良かったというのが本音である。やはりここは奇を衒わず、雑誌発刊の経緯などを朴訥と語ることにする。


去る 2004 年 8 月、Ruby の利用者と開発者を支援することを目的とした団体、「日本 Ruby の会」が発足した。「発足した」などと他人事のように書いているが、発足させたのは我々である。すなわちこの Web 雑誌は、日本 Ruby の会が活動の一つとして立ち上げ た Web 雑誌である。

ところで、日本 Ruby の会の活動の方針として、あまり「普及」というものは前面に掲げていない。 これはたとえばあるプログラムを実装するにあたって、使う言語は Ruby か Perl か Python か Haskell か Curry か、といったような選択を強いるような場面に果敢に赴き、他言語を蹴散らすような真似をしたくないということである。 大抵の場合プログラムの実装は一つあればよいもので、となると使用言語も一つあればよい。よって、そのような場面で Ruby の「普及」を試みることは、他言語に対する Ruby の優位性を声高に主張することになりやすい。 これはさほど多くもないプログラミング言語愛好家間に無用の対立を招くことにもなり、誰にとってもよいことではない。 結局のところ、使いたい人が使いたいところで使えばよろしい、といった、見方によっては痩せ我慢にも見えなくはないくらいの鷹揚とした態度で臨むほうがお互いのために思える。

しかし一方で、使いたい人が使いたいところで使えない、ということもある。 先日行われた「オープンソースカンファレンス 2004」での Ruby の BOF の場でもこの問題について意見が集められたのだが (と、これまた他人事のように書いているが、この BOF を担当したのも日本 Ruby の会である)、 理由の一つとして挙げられたのが文書の不足である。 とりわけ無料かつ自由に読める文書こそが、 自分以外の者に Ruby を知らしめるきっかけとして欠かせない、 ということだった。

このような現状に対し文書を提供する形態として、 Web 雑誌というものは一つの回答たりうるだろう。 好きな人にはブックマーク経由で、 そうでもない人には検索サイト経由で辿り着いてもらう、 というのはアクセス形態としては望ましい。 また、まとまったサイトを自力で立ち上げ、 そのサイト運営と執筆とを兼務するのは何かと困難が つきまといがちであるし、載せる内容もある程度絞り込んでいかないと 収拾がつかなくなりやすい。 さりとて昨今流行の blog や web 日記などでは、 Ruby 関連情報の紹介とともに最近読んだライトノベルの感想や 今夜のおかずや猫の写真を載せてしまいがちになるし、 そのうちラノベサイトやごはんサイトや猫サイトになってしまう 危険性も否めない。 その分、多人数で執筆し、定期的に更新される情報媒体があれば、 Ruby の原稿はそちらに、 ラノベやごはんや猫は自分の blog に、と心置きなく書き分けができる。

もちろん自サイトの方が活発になってしまい、雑誌原稿執筆の方が おろそかになってしまうことも非常によく見聞きする話だが、 その際は新たな人材にバトンタッチすることも可能だし、 最悪更新が途絶えても書いたものは残る。 長く続けていくこと、そのことによって生まれるものがあるのは事実だが、 その時々に応じて優れた文書が断続的に書かれることにより生まれるものも あるだろう。そう考えている。

何分急ごしらえかつ不慣れなこともあるため、 拙いところも多々あると思われるが、 読者諸賢の御指導御鞭撻を仰げれば幸いである。

(るびま編集長 高橋征義)


  1. 岩波文庫とか角川文庫とか電撃文庫とかの最後の方のページを参照のこと。