0004 号 巻頭言

コミュニティについて

Rubyist Magazine 第 4 号をお届けする。

ほぼ毎月のように、(我々にとっては)多くの記事を提供してきたわけだが、 来月は冬休みということで発行をお休みさせていただく予定である。 「記事が多くて読みきれない」という方もいらっしゃるとのことで、 この機会に前号までの記事もあわせて読み返していただけると幸いである。


「そんなことでは地球は滅びてしまうぞ」彼はそんな非難に対して このようにこたえる男だった。「それがどうした」   (神林長平『騎士の価値を問うな』(ハヤカワ文庫 JA『戦闘妖精雪風』所収)より)

先日行われた Open Source Way 2004 で、 佐渡秀治氏による『日本におけるオープンソースの幻想と VA Linux』 という発表があった。ITmedia や japan.linux.com といったニュースサイトで 取り上げられ、スラッシュドットジャパンでも 300 を超えるコメントがつく 大きなスレッドに成長したこともあり、ご存知の方も多いだろう。

この話題、特に後半のコミュニティ活動についての批判的な言及は、 「* ユーザ会」に近いような団体を遅まきながら 立ち上げた私としても、非常に気になっている。 あるいは私も、せっかく世界に向けて活躍をしていた Ruby を、 日本(語)の中でタコツボに押し込めるべく、 利権を求めて活動しているワルモノ(ただし小物)のように 見らなくもないかもしれない。 実際、「利権」については設立の際に考えないわけでもなかった。 といっても、技術力も英語力も発言力もたいして持っていない私が 利権を享受できないのは明らかで、 むしろ利権を求めて怪しげな人に介入され、 会の活動全体がおかしくなる危険はないか、 などといった点を気にしていたのだが。

実を言うと、佐渡氏の現状認識そのものにはあまり異論はない。 「日本 Ruby の会」が「日本 Ruby ユーザ会」という名前になっていないところや、 活動方針に「ユーザの支援」だけではなく 「開発者の支援」と明記しているところからも察していただける通り、 「ユーザ会」という組織を運用していくことはなかなか難しいものだと考えている。 他の団体についてはあまり詳しく内情を知らないのだが、 問題のある団体もきっとあるだろう。

しかしながら、その対策、結論についてはにわかに首肯できない。

そもそも、オープンソースには、「開発元」に対する「貢献」が必要なのだろうか。 やりたい人がやりたいことをやりたいようにやる。 それで十分ではないか……といった意見がスラッシュドットに書かれていたが、 同感である。 「そんなことではオープンソースは滅びてしまうぞ」と言われて 「それがどうした」と答えるような人を許容することができなくなって しまうのは、狭量というものだろう。

「ローカルでパッチを作りつづけるよりも本家に還元した方がコストが低い」 という指摘もあった。おおむね正しいと思うが、開発元に理解がない場合などは、 その労力が馬鹿にならない場合もあるのではないか。 諸事情によりそのように状態に陥っている場合、それを非難したところで 得られるものは少ないだろう。

究極の軽さと WYSIWYG を追求したプレゼンテーション手法である「less プレゼン」 などの魅力的なネタで知られる塩崎拓也氏は、 以前「オープンソース」の「貢献」に対し「おすそ分け」という 概念を対峙させていたことがある。 「つまらないものですが」と恐縮しながら さりげなくパッチを差し出す姿を想像すると、 なにやら妙に日本的な情緒を醸し出しているようでもあり、 このようなメンタリティには強い共感をおぼえる。 「おすそ分け」と「貢献」。 行為そのものは同じようなものに見えても、そこに働く「気持ち」は大きく異なる。

「おすそ分け」はもろく、弱い。 「おすそ分け」程度の気持ちでは、理解のないかもしれない開発元に対し、 その意義を手を変え品を変え説明し説得する、 といった活動を支えきれるほどの強い動機にはならないかもしれない。 いや、そもそも働きかける以前に、批判されることを恐れて 何もできなくなってしまうかもしれない。 その場合、その努力はあっさりと狭い「タコツボ」の中でしか 享受できないことになってしまう。 それでも、そのときはそのときで、 説得できる材料と人材がそこに現れることを気長に待つ、 という選択肢もあるだろう。それを批判し、 アジテーションを投下しても、批判された側の人が 突然貢献に目覚めて活動をはじめる、 といった効果はとてもではないが期待できない。 (アジテーションには議論を盛り上げるという効果があり、 この発表やその紹介記事もまさにその成果と言えるのかもしれないが、 手法としては決して誉められるものではない。)

もちろん、何もせずに待ち続けていなければいけない、というわけではない。 季節の挨拶も通じなさそうな開発元にいきなり働きかけることはできなくとも、 周りの人には細々と働きかけることならできる、というのであれば、 ぜひそのようにするべきである。 そうすれば、いつか時と人がそろい、状況が変わることもあるかもしれない。 あるいは、自分が変わり、いろいろな方の助力により、 開発元に対して声が届くようになるかもしれない。 そのためには、それがたとえ「支流」の中だけであったとしても、 働きかけをしてみることである。その小さな一歩を大きな流れへと 広げていくことは、まさにコミュニティがなしうることだろう。

Rubyist Magazine は、今のところ日本語でしか提供されていない。 その意味で、日本(語)に閉じた成果物といっていいだろう。 けれども、現在までの Rubyist Magazine の誌面には、 Ruby を取り巻く魅力が感じられるように思う。 実際のところ、私が直接貢献しているものは何もないに等しいのだが、 誌面全体からは「Ruby を使うのが好き」「Ruby を使うのがたのしい」 というメッセージが伝わってくる。 いまのところ本誌からは、執筆者にも編集者にも、 何の謝礼も提供されていないのだが、 報酬もなしに書き紡がれていく記事たちは、 まさに「たのしさのおすそ分け」でもあるように思う。

記事の中には専門的なものや技術的に高度なものもあり、 多少 Ruby をかじっただけの読者でも理解できない記事もあるだろう。 しかし、それでも「なんだかよくわからないけど、このひとたち楽しそうだね」 くらいは思ってもらえるかもしれない。 そうすれば Ruby にも好意を持ってもらえるだろうし、 自分も活動にコミットしようと思うひともいるだろう。 それが明日の Ruby をさらに魅力的なものにしていくのではないか。 こういった伝播力は「おすそ分け」の強みである。日本の社会のなかで 「おすそ分け」という言葉と風習が根強く残っているのも、 社会システムの中で効果的な役割を担うほどには強力な機構だったためだろう。

遠くにいるその人に語りかけるように、すぐそばにいる誰かに 笑顔で語りかけてあげてください。それは、別々のことではありません。 (「谷山浩子・猫森集会 2003」コンサートパンフレットより)

現在、Rubyist Magazine では、非日本語圏の方に執筆を依頼する準備を進めている。 すでに Ruby Conference でのメッセージや、RLR でのライブラリ作者の コメントなどで、海外の方の声を寄せていただいたことはあるが、 原稿依頼の交渉をされている担当者のメールを読むと、 それとはまた別の苦労があるように見える。 それでも、担当者の尽力もあり、実現に向けて着実に歩を進めている。 また、Rubyzine という英語圏での Ruby 雑誌が創刊されれば、 記事を翻訳し掲載したい、という話もある。

もともと日本語圏の方々のための、 日本で閉じたものとして作ってきた本誌でさえも、 海外へとつながっていく道がある。 私たちの隣にいる人と、違う国・違う言葉・違う風習・違う思想で 暮らしている人とは、どこかでつながっている。

「世界に目を向ける」ように、自分の身近にいる人にも目を向け、 また身近な人に目を向けるように、遠い世界にいる人のことを思う。 そんな風にしていければいいと思う。 それらはみな、別々のことではないはずなのだから。

(るびま編集長 高橋征義)