0028 号 巻頭言

「コミュニティ」とは誰か

Rubyist Magazine 第 28 号をお届けする。

今号は、久々に復活した上に、ささださんまつもとさんに加えて竹内先生その他の豪華メンバーでお届けする Rubyist Hotlinks 【第 22 回】 nari さん、 小川さんが一から jpmobile を紹介する jpmobile + Rails 2.3.4 で作る携帯サイト入門 【前編】、 独特の熱気があった名古屋 Ruby 会議 01 を豊吉さんがふりかえる RegionalRubyKaigi レポート (09) 名古屋 Ruby 会議 01、 先日の KungfuRails ではお世話になった増満さんがこれまた同じくお世話になったダニエル Lv さんを紹介する 中国の若きエンジニアの肖像 【第 2 回】 ダニエルLvさん、 ついに最終回となってしまった浜地さんによるおなじみの るびまゴルフ 【最終回】、 そして Ruby 関連ニュースRuby 関連イベント となっている。


今回は RubyConf 2009 などもあり、あまり時間がとれなかったので簡潔に書きたい。

このところ、というほどでもないとは思うが、 Ruby の活動に関して「コミュニティ」という言葉を聞くことがある。 別にコミュニティ自体は以前からもあったし、それについては何かと複雑な思い入れもある (その一部はるびま 0017 号の巻頭言でも触れた)。 が、そういうのとは別の次元で、引っかかりを覚えることがあった。

それはたとえば、「(Ruby の)コミュニティが○○をされる」あるいは 「(Ruby の)コミュニティのみなさんに○○していただく」といった言葉づかいである。 そういう言葉を聞くことが最近あった。これには非常に違和感をおぼえた。 何に違和感を感じたといって、 そう発言している人が、自分は一切コミュニティに含まれない、 自分の外部にコミュニティがあり、その活動がある、という前提で語っていたことだ。

「コミュニティ」とは、あるいは「コミュニティのみなさん」とは誰か。

ここでの「コミュニティのみなさん」という言葉は、非常に漠然とした言葉だ。 この「コミュニティ」という言葉、これがたとえば「Ruby 関西」とか「Ruby 札幌」とか「Ruby committers」とか、 あるいは「日本 Ruby の会」ということになれば、まだ話ははっきりするし、あまり違和感はない。 が、そうではなく、ばくぜんとした Ruby を取り巻くもろもろの中で、 「Ruby のコミュニティの方々」といった言葉が発せられる。そういうことがある。 何かしらの活動主体となりうる人々のことを指しているのだろう。 「みなさん」という言葉も当然ながら美奈さんとか実菜さんとかのことではない。

そのような言葉はとても、とても深い違和感を覚えてしまう。

「コミュニティのみなさん」、という活動主体は存在しない。 もし「コミュニティのみなさん」に対し、何かの活動を期待した発言を するのであれば、それは発言者自身に帰ってくる言葉だ。 すなわち、「コミュニティのみなさん」と発言する人はまさに 「コミュニティのみなさん」の一人である (もちろん全くの部外者であればコミュニティに含まれないこともあるかと思うが、 そもそもそのような部外者がわざわざ「コミュニティのみなさん」などという発言をするわけがない)。

あなたが「コミュニティのみなさん」を引き受けないのであれば、 だれも「コミュニティのみなさん」を引き受けることはない。 「自分は XX でしかないから」「自分は XX よりは○○だから」 といったことを言って謙遜したくなる人もいるかもしれないが、 それはコミュニティの一員たるあなたがその程度のコミットメントしかしていないというだけである。 その際に重要なことは、活動の多寡によりコミュニティに帰属する/しないが決まるわけではないし、 コミュニティ内での価値とか偉さのようなものが変わったりするわけではない、ということだ。 あるいはその活動の少なさにより引き目を感じているのかもしれないが、 それはまったくの杞憂にすぎない。 定義からいっても、そのようなものでも包含しようとするのがコミュニティだろう。

たまたま名前を聞き、たまたまダウンロードして使ってみて、 たまたまうまく動かないことがあり、たまたま BTS に登録するだけ登録してあとは二度と使わなかったにしても、 それは FLOSS の開発プロセスにおいては立派な役割を果たしている。 そこまで行かなくても、 誰かに「○○ってのが面白いらしいよ」と口コミするだけでも、 FLOSS のマーケティングシステムにおける役割を果たしている。

もちろんその一つ一つを取り出してみれば、それはささやかなものでしかない。 しかし、声の大小と洗練度を差し引けば、 所詮 FLOSS が広まるプロセスなどそのようなものの集積でしかない。 少なくとも Ruby はそのようにして広まってきた。 誰に頼まれた訳でもなくコードを書き、 誰に頼まれた訳でもなくドキュメントを書き、 誰に頼まれた訳でもなく利用を勧め、 誰に頼まれた訳でもなくそれをフィードバックしたりしなかったりを繰り返し、 それなりに長い時間をかけてここまで来たのだ。

こうまとめると、まるでよくできた「ちょっといい話」的な創作のように聞こえるかもしれない。 また実際に関係者の様々な思惑が陰に陽にあったとも思われるし、 そうするとそこに政治や駆け引きのようなこともないはずがないだろうが、 それに重きを置きすぎるのは針小棒大というものだ。 Ruby は、まるでばらばらな、さほど共通性もない多くの人々の活動に支えられている。 いや、「支えられている」という表現は婉曲的すぎるかもしれない。「支える活動」と 「支えられる活動」が別個にあったりするわけではないからだ。 そのような多くの人々の活動そのものが、Ruby の活動の全てだ。 それを考えれば、コミュニティの内と外との区別や境界など考えるだけ徒労に終わるだろう。

簡潔に書くと宣言したときに限って簡潔に書けたためしがない。が、今度こそ簡潔にまとめたい。

コミュニティとは誰か。もちろん、あなたのことだ。あなたがコミュニティであり、 それ以外にコミュニティはいない。あなたのような人々の集まりを、コミュニティと呼ぶのだ。

(るびま編集長 高橋征義)