Rubyist Magazine 第 39 号をお届けする。
今号は、るびまもついに八周年ということで、毎年恒例の 【八周年記念企画】 Rubyist Magazine へのたよりと郡司さんによるRubyist Magazine 八周年 にはじまり、 海老沢さんが最近話題の RubyMotion を紹介する RubyMotion のご紹介、 竜之介さんが Excel によるテスト報告書作成に Axlsx で挑む Axlsx でテスト支援、 郡司さんが「式」と「文」について Ruby と Python を対比させながら解説する 式と文、評価と実行、そして副作用 ―― プログラムはいかにして動くのか【前編】、 たなべさんが Dave Thomas が asakusa.rb に来た感動の一夜をまとめた 達人プログラマ Dave Thomas が Asakusa.rb で話するというので聞いてきた、 そして Regional RubyKaigi のレポートとして RegionalRubyKaigi レポート (29) みなと Ruby 会議 01と 技術評論社様ご提供の 0039 号 読者プレゼント となっている。
何はおいてもまず最初にひとことお詫びしておきたい。すでに一部では発表されている通り、つい昨年終わったはずの RubyKaigi が、来年から新たに復活することになった。
もっとも、0031 号 巻頭言でも書いた通り、なんとなく復活することは匂わせてあったのだが、1 年休んだだけで復活することになるのは想定外だった。実際、比較的最近まで、2014 年くらいに復活できれば……、という話を一部でしていたはずなのだが、いつの間にか 1 年繰り上がっていた。
RubyKaigi はもう終わると思っていたのに……と、何となく騙された気分になった方にはお詫び申し上げたい。すみませんでした。
新しい RubyKaigi は、体制はそれなりに代わることになる。まず、実行委員長には、これまで就任していた私ではなく、Ruby の会の理事であり、また前回の RubyKaigi2011 では副実行委員長を務めていた角谷さんが就任する。 これまでは実現のための統括を行っていた角谷さんがコンセプトメイキングから行うことになるので、きっとこれまでとは大きく異なる RubyKaigi になるものと思われるし、実際「いろいろ違うもの」と思っていただいた方が都合もよいだろう。
もう一つ体制について決まっていることとしては、Ruby の会が主催団体の一つになる。これはこれまでも同様だったとも言えるのだが、前回までは Ruby の会も任意団体であり、RubyKaigi 実行委員会と同じような立場だった。これが今回からは、法人格を持った団体として、施設やスポンサー等、他の法人との契約が必要な場合に契約主体となれる。ちょうど前回まで Ruby アソシエーションにお願いしていたようなことが、RA の手をわずらわせることなくできるようになった、ということだ。私自身は RubyKaigi の主要スタッフというより、RubyKaigi の主催団体の一つの代表(理事)として、その後方支援にあたるのが主な役割になるだろう。
ちなみに細かいところでは、正式名称が少々変わる。これまでは「日本 Ruby 会議YYYY」といった名前が正式名称であり、「RubyKaigi YYYY」のような名前は略称であったが、これからは「RubyKaigi」がこのイベントの正式名称になる。 この辺りについては角谷さんの強い意向があるようなので、私の方からあまり詳しく代弁せず、当人による素晴らしい解説を期待して待ちたい。
さて、上記の通り、私は実行委員長から降りることになる。そこで、これまでのまとめの意味も込めて、RubyKaigi のようなそれなりに大きい規模のイベントの実行委員長、つまりリーダーを務める上で、知っておいた方がよさそうなことを書き残しておく。
RubyKaigi の実行委員長としての一番重要な仕事は何か。 私の場合、「趣意書をつくること」をもっとも重要な仕事だと考えていた。
後でも触れるが、一定以上の大規模イベントになってしまうと、実行委員長自身は大した仕事ができなくなる。 自分で手を動かすことができなくなるのは当然のこととしても、誰かに指示したり判断したりすることすらもろくにできなくなってくるのだ。少なくとも私の場合はそうだった。
なぜだろうか。それはつまり、「組織化」の問題だ。 規模の拡大していくにつれて、運営側も規模の拡大、複雑化に耐えられるようにするため、タスクが分割されたりチームができたりしていく。 すると個々の作業や決定については自分以外のリーダーがいるため、その人に任せることになる。 細かいこととしては誰も手がつけられなかったり、たまたまポジションが空いているところの雑用のような仕事をやるくらいで、本当に出番らしい出番はない。無理にやろうとすると、悪い意味でのマイクロマネジメントになってしまうだろう。
では、実行委員長でなければできないことは何か。それは最初に大きい方向性を決めて、その方向性を開催までの間、折にふれて周知徹底させることだ。
ここでのポイントは、「大きい方向性を決めるのは実際に動き始めてからでは遅い」ということである。 動いてから方向性を変えるなると、全体で共有するのが難しくなり、また個々のメンバーの意思統一もしづらくなる。 そのため、できるだけ早い段階、理想的には最初の時点で、今回のイベントはなぜするのか、どういう方針にするのか、というのを打ち出し、そしていつでも参照できるように文書化しておく。 そのような文書はふつう「趣意書」と呼ばれるため、趣意書をつくり、維持することが最初の、そして最大の仕事になる。 つまり、実行委員長のしごとは、ある意味イベント準備がはじまった時点で終わっている、とも言える。
趣意書の書き方はいくつかありそうだが、私の場合はだいたい以下のようにしていた。
1 を入れておくのは、KPT で Keep を最初に言うようなもので、ここは自分たちのイベントの存在価値と過去の自分たちの仕事の価値を再確認する上でも入れておきたい。これまでの仕事を頭から否定してしまうとモチベーションが持たないし、そもそも否定する必要もないからだ。
その上で、2 から 3 の流れで新たなイベントを開催する必要性を訴え、そして 4 のテーマの正当性を掲げる、という流れになる。
実際問題として Ruby をとりまく環境は、ここ数年つねに大きく変化してきたと思うのだが、たとえそうではなかったにせよ、開催するからには単に惰性で開催しようとするのは士気に関わる。 嘘でもいいから、とは言わないが、ここは多少こじつけでも、その年のイベントを開催する必要性を訴えておきたい。
さらに言うと、毎年ころころ方向性が変わるのも行き当たりばったりに見えてしまってよくない。そのため、過去数回のイベントを踏まえつつ、今年はさらにこんな感じにする、といった具合にして考えるとスマートっぽく見える(見え方は重要だ)。
そしてその流れにのっとって、今回のイベントのポイントを一言でまとめた言葉をテーマにする。……そんな形で、毎年の趣意書を作ってきた。
もちろん、趣意書で書いたからといって、それですべてが決まるわけではない。 方向転換などは日常茶飯事のように起こる。なのであまり深く悩む必要はない。 何かしらそれっぽい、一年間の準備と本番に耐えられる言葉ができていれば十分である。 後述する通り、ここでは一つの方向性が今回のイベントの柱として決まっていることが重要で、その内実はイベント準備に動いている間に決まっていくものだ。 とにかくえいやっと決めて書き、それを守ることがたいせつだ。
趣意書の使い方については、もちろんサイトのどこかに置いておいてみたり,あるいはスポンサー候補の企業等にイベントについて説明する際の資料に書いてみたりするのだが、 もちろんそれだけにしか使わないのはもったいない。
よくあるのが、何かしら選択に迷ったときに参照することだ。イベントの開催においては、どちらでもたいして違いはなかったり、あるいはその時点ではどちらがいいか分かりようがないにも関わらず、どちらかに決めなければいけない、といったことが多々起きる。その場合、趣意書のストーリーに乗っかって、こちらの方がいいというストーリーができそうであれば、そのストーリーにしたがって判断するのである(この辺りのストーリー作りには一種のスキルが必要かもしれない。島本和彦作品辺りをたくさん読んでおくとよいだろう。もちろん新井素子作品でも構わない。キーワードは「ご都合主義」だ)。
もちろん上記の通り、何もかもが始まる前に勢いで決めた趣意書が、現場で発生する問題の解決にきれいに当てはまるわけはない。そこは言葉の力というかレトリックというか、ほとんどこじつけのような場合もある。
それでも、趣意書に基づいてこう判断する、ということにしておけば、意思決定の説得力が高まる。率直に言って、ぶれなく決めることそのものが重要で、その内容や結果はあまり重要ではない(先ほど書いた通り、どちらでもたいした違いはないのだ)。ある意味、自分で自分を説得する風味もないではない。
しかし面白いことに、このようにしてイベントを作っていくと、自然にテーマに寄り添った形でイベントがきれいにまとまってくるものだ。不思議なものである。
そんなわけで、個別の活動は各実行委員に任せて、実行委員長は全体を統括する立場になるわけだが、イベント全体を管理する管理者として心しておきたいことは何か。それは「あきらめること」だ。
何をあきらめるか。それは以下の 2 点に集約される。
この 2 つを放棄して、本当に管理者たりうるのか、という疑問が大いに沸く。が、実際制御も把握もできなくなるのだから仕方がない。素直にあきらめた方がいい、というのが私の結論だった。
実行委員長というからには、実行委員全体の、つまりはイベント開催のリーダーにあたる。 リーダーであるからには、あれやこれやを決めたり実現したりしなければならない、という気分になるのは当然だろう。私も当初はそう考えていて、そう振る舞えることこそが優れた実行委員長だと素朴に信じていた。
しかし、イベントの規模が大きくなるにつれ、それはできない、むしろやってはいけないことだということがわかってきた。
規模が大きくなるとどうなるか。まず、何がどうなっているのかを把握できなくなる。
小さいうちは小数のリーダー的な立場の人に聞けば、全体のだいたいは把握できるのだが、そのうちリーダー的立場の人たちに聞いても、彼ら・彼女らですら把握していないことができてくる。 そして本当に大きくなると、誰が何を把握しているかも把握できなくなる。 組織が成熟し、小さいチームが自発的に生まれてくるような状況であれば自然とそうなるものだ。
把握できていないので、意志決定も当然ながらできない。ましてや指示を与えることもできない。 誰に何を指示すればいいのか分からないからだ。
正直に言うと、一時期はこの辺りを何とかしようとして頑張ったり文句を言ったりしていたこともあった。恥ずかしながら怒りっぽくなっていたこともあったと思う。が、結局は誰に文句を言っても問題は解決しないようだった。
そうすると打つ手はない。結局はもうあきらめて、個々の立場の人に任せるしかなかった。
ボランタリーな組織によるイベント運営では、「チームの各メンバーにやりたくないことをやらせることができない」というのが非常に大きい。指示を出してもその通りに動いてくれるとは限らないからだ。だいたいみんなやりたいことしかやらないというか、やれない。無理やりやりたくないことをやらせようとすると、作業効率も低ければ品質も目に見えて落ちる。方向転換すらも難しい。
そのような状況に陥ってしまい、他にやろうとする人もいない場合は、そのタスクはまるごとあきらめるしかないし、そうするべきである。そしてそのタスクなしに開催できるよう再設計するしかない。
業務としてイベントを運営する立場であれば、こんなことは許されなさそうな気もする。しかし、こちらも業務で実行委員長を行なっているわけでないし、むしろイベントそのものを好き勝手にデザインできる立場である。つまり、自分は事業者ではなく、むしろ顧客なのだ。そうであれば、「顧客が本当に求めているもの」、つまりゴールが今のチームで実現できないなら、そのゴール自体を融通無碍に変化させ、結果的に今回のイベントこそが我々の本当に求めていたものだ、と思うようにする方が正しいだろう。 要するにゴールをずらしてしまえば、変えてしまえばいいのだ。
たぶん、人望が厚くていろんな人とのコネクションがあれば、適材適所で人を引っ張ってきたりして、ゴールをずらすことなく実現できるのかもしれない(が、そうでもないかもしれない。人が増えるとそのコントロールをする役割の人も自然に増えるだろう。そこが機能しなければ、逆に増やしてしまうことがマイナスになる。都合よく人を配置できるほどの人材プールを抱えていない限り、どこかで限界に突き当たるのではないか)。 が、私はそういうタイプではなく、むしろ「できないならできないで止めるか」と思うタイプだったので、このような方法をとった。
実行委員が動き始めた後で実行委員長がやれることはほとんどない、と書いた。では、ほとんどないながらもできること、やるべきことは何か。それは突き詰めると2つしかないと思う。
ここで重要なのは、「何とかする」の中身は問われないことだ。前述の通り、当初の目標をあきらめて個別のゴールそのものを変えてしまう、あるいはいっそなかったことにしてしまうのも「何とかする」ことの一つだ。
ここでいう「何とかする」ことにおいて、ポイントとなるのは、実行委員長が「意思決定」と「価値判断」に関するすべてを握っていることだ。 実行委員長はどんなことでも決断できるはずである(繰り返すが、実現できるかどうかはまったく別だ。そのため「実現しない」という決断をすることは思った以上に多い)。 そしてそれ以上に重要なことは、その決断に対する価値判断基準を自由に決められることだ。
あることを実現しないことを決めても、それは別にイベントの価値を損ねるものではない。たとえば他の大切なことを優先したからであって、結果的にはイベント全体にとってはそれを実現しないことを「良かったこと」とする。そのような価値判断をも行い、徹底させる。それができるのは実行委員長の最大の特権である。
一般論としても、メンバーがそれぞれ自分の持つ力を最大限発揮できるようにするには、「最後はリーダーが何とかしてくるはず」という信頼を得ることが肝心だと思う。 それに応える、あるいは応えてくれると信じてもらうことが、実行委員長の仕事だ。
さてここまで書いてきたが、分かる人には分かる通り、こんな体制は練度もモチベーションも高い実行委員がいないととてもではないが実現できない。幸いなことに RubyKaigi ではそのような実行委員には恵まれすぎるくらい恵まれていて、そこはあまり心配する必要がなく、むしろ自分よりも有能なひとたちをどうやればまとめられるかの方が心配なくらいだった。
とはいえ、一般論として、実行委員長の立場で素晴らしい実行委員が集められるかどうかは怪しい。率直に言って、それは実行委員長ができる仕事ではないのではないかと思わないでもない。RubyKaigi の場合、Ruby のコミュニティがまず先にあり、そのコミュニティとの関わりの中で RubyKaigi 自身の価値を高めてきたのが理由であって、そこには実行委員長はあまり関係なかった。
というわけで、結論としては他のイベントの役に立つかどうかは甚だ心もとないのだが、参考にしていただければ幸いです。
(るびま編集長 高橋征義)